■うま味、脂身たっぷり「幻の島豚トンジル定食」 ■喫茶 グリーンパーム
■沖縄県在来蓄養動物実態緊急調査報告書 1992年 沖縄県教育委員会
■琉球豚の特徴
ドイツの遺伝学者R・ゴールドシュミットが1927年沖縄島を旅行した際まとめた紀行文である「新日本」の一部が平良・中村訳で「大正時代の沖縄」という題名で琉球新報社から発行されている。その写真に基ずいて琉球豚の特徴を述べると以下のようになる。
毛色は全身黒で、顔鼻は長く、目は小さく、額に浅い八字形にしわがある。耳は大きく厚く垂れ顔面を覆っている。背は凹 み、短く、腹は垂れ地面に接触しがちで、後駆は狭く、肋張りがない。四肢は粗大で、距(けずめ)は地面に着き、尾は太く、小型である。体質は強健で、粗食に耐え、保育能力に優れている。従って、大正時代の琉球豚にには四肢と尾端が白色であることから、バークシャー種が交配された可能性がある。
他方、豚丹毒、豚コレラに強いことから、坑病性の実験動物として優れており、今後、実験動物の開発からも再評価すべきであろう。
■琉球豚の現状と保存団体
沖縄本島北部を中心に、15~16頭が飼育され、県立北部農林高校では雄雌合わせて10頭が飼育されている。また、県畜産試験場においては、雄雌各1頭が飼養され、繁殖性や産肉性、他品種との交配試験等についての調査がすすめられている。
■大正時代の島豚 「大正時代の沖縄」 ゴールドシュミット著 平良研一・中村哲勝 訳 1981年 琉球新報社
「南嶋探験」当時の笹森儀助 新南嶋探験 -笹森儀助と沖縄百年- 1999年 琉球新報社 編集・発行
■豚肉文化
■日本一の養豚県
■高い屠殺、解体技術
アジア諸国との交易 のなかで食肉文化が形成された沖縄では、王府時代で既に養豚に関する技術の蓄積がなされ、本土とは一線を画した。笹森が訪れる十年余りも前の1880(明冶13)年には、先島を含めた県下で50339頭もの豚が飼育されていた。県の行政史によると、そのころ本土では豚はほとんど飼育されておらず、沖縄は日本一の養豚県として知られていた。
笹森が見聞した当時の沖縄の屠殺技術は、食文化の異なる本土人の目には驚異として映ったにちがいない。
古く蔡温の時代から豚の屠殺、供食が勧められていたため、屠殺・解体技術が広く一般に普及。密殺を規制する屠場法が1906(明治39)年に整備されても、自家用屠殺は当然のように行われていた。
厚生省の屠殺統計が示す35年の県内の屠殺頭数は、屠殺場が26187頭で、自家用が3218頭。しかし、県の行政史は「当時の村や字では屠殺全頭数は自家用屠殺として届けるのでわなく、形式的にごく一部を届け出るのが例にならっていた」 として、トータルした屠殺数は、年間十万頭ほどにも上がるとみている。
笹森が高く評価した屠殺・解体技術を持つ熟練者は、県内各地で活躍。終戦後のひところまでは、特に旧正月をはじめ、盆や冠婚葬祭などの年間行事で腕を振るった。四足を縛って棒で固定した豚の、のど元を切って血を出し、熱湯をかけて毛をはぎ取る 。つづいて川や海、井戸などで解体、臓物ももちろん捨てることなく、大切に取っておく。農家では浜下りや清明祭のころまで農作業の節目に食し、かめで保存した塩漬けや、かまどの煙で燻製にしたものは、その後も料理に使われたという。
「医食同源」の考え豚肉料理にも反英
笹森は豚の屠殺・解体だけでなく、沖縄料理にも初めて出会った。県知事に招かれた那覇・辻村の料亭でのことだった。「茶菓に次いで山海の珍味を列す。基調理の主部を占むのは、豚肉とす」足を患い肉食を禁じられていたため、実際に味わえなかったのを残念がったが、多彩な豚肉料理は、屠殺技術と同様に笹森を驚かせたようだ。
「豚肉一種を以って、幾十種の珍膳を供するに足ると云う。(中略)豚肉料理の精密なる、肉食を主とする西洋人も恐くは一歩を譲らん」 と述べている。
豚肉は年中行事や法事の供え物にも近世の食肉慣習が明冶、大正、戦前、戦後と時代を移しても地域に根強く残り、粗食が常であった庶民にとって、動物性タンパク質の採れる楽しみな行事食は、そのまま貴重な栄養源ともなった。チーイリチャーやチムシンジ(肝煎じ) に見られるように「医食同源」の考えは豚肉料理にもしっかりと反映され、芋や葉野菜類の粗食と肉料理を組み合わせたバランスの良さが長寿県を支えてきた、と分析する研究者も多い。(新南嶋探験ー笹森儀助と沖縄百年ー 琉球新報 編集 発行)
山原の養豚