南風

平和の礎・6月23日の朝陽

平和の礎・6月23日の朝陽

▽撮影年月日:2010年6月23日6時28分

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15-isigi--0623△親族の名前が刻まれた平和の礎の前で名前を呼び、語りかけるように祈る人たち  2010年6月23日午前9時13分

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10-isigi-0623△平和の広場正面から昇る朝日 2010年6月23日午前6時31分

■未来につなぐ
■ 6・23平和への願い
23-tetu■平和への決意新たに
平良哲さん(74) 那覇市、沖縄観光コンベンションビューロー会長
戦後65年、復帰38年を迎えた今年は53回目となる慰霊の日を迎えたが、沖縄は今でもなお歴史に翻弄(ほんろう) され続けている。
日本国内で唯一の地上戦を経験した沖縄は、全戦没者の魂を心から慰霊するとともに、その悲劇を風化させないためにも、永遠に平和を叫び続ける責任があると思う。慰霊の日は、平和を発信すると決意を新たにする日だ。
琉球新報 2010年6月23日より転載

■6月23日の朝陽  (2002年12月28日琉球新報 南風 赤嶺和雄(設計同人GAN)より転載)

22-isizi-23沖縄戦の終結から57年を経た6月23日、平和祈念公園で沖縄全戦没者追悼式の行われる前、十数年振りに健児の塔を訪れた。
以前はこの裏側から急な階段を登り、摩文仁の丘にある黎明の塔まで歩いたものだ。
摩文仁の丘に各県の慰霊の塔が建立し、平和祈念公園に駐車場が整備されると、摩文仁の丘への人の流れが変わってしまつた。
しかし健児の塔へ行く途中や下の方洞穴の前でテントが張られ慰霊の準備が進められている。遺骨が見つかった多数の洞穴が何年経っても慰霊の場となっている。それぞての思いで亡き人を祀る気持ちに変わりはない。
中には死亡した場所もわからず小石を拾いタマシイー ウンチケーをした人も多いだろう。
沖縄戦終結50周年事業の柱として建設された平和の礎のデザインは国際コンペでの募集であった。応募総数は外国を含む県内外から274件があり、地元のチーム〈グループ轔(りん)代表・仲井間憲児、和宇慶朝健、赤嶺和雄、渡久地克子〉が選ばれた。
「平和の波、永遠なれ」 をテーマに、戦跡の丘一面に波紋状の同心円を形づくる戦没者刻銘版板、中心軸か海に向かって貫通している。そこを沖縄戦の終結の6月23日の朝陽が正面から昇る計画であり、平和の心を波にのせて沖縄から世界に向けて発信する事が願いである。礎には私の父と二人の姉も刻銘されている。母が父の名前に手を当て、まるでそこに父がいるように話す姿は、五十年と云う母の思いを見たような気がして胸がつまった。その母も九十四歳で一昨年父のもとへ旅たった。礎では今でもよく母に似た光景を見かける事がある。来年も6月23日の朝陽を迎えたい。 ―平和の波遠泳なれ―
琉球 新報 2002年12月28日 南風 赤嶺和雄(設計同人GAN) より転載

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